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追悼:甲斐さん

昨日、今の私の価値観に、少なからず影響を与えてくださった恩師とも言える方、

農業ジャーナリスト・甲斐良治さん急逝の報を受けました。


メッセンジャーで同年代のHちゃんから一報を受けたとき

5分ほど、思考がフリーズし目の前が真っ暗に。

心の整理がつかず、信じられず、いてもたってもいられず部屋中をぐるぐると歩き回っていました。

深い喪失感で、1日経った今も、何かしていないと涙が出てきてしまいます。



昨年末に農文協を退職され、都内の住まいを整理されたのちに、ふるさと高千穂に戻られるとSNSを通じて知り

“コロナが明けたら、ふらっと車で高千穂まで甲斐さんに会いに行きたいな”と思っていたところでした。

まだ心の整理がつかないままだけど、

もしかしたら今のこの甲斐さんへの思いを電波に乗せれば、まだふらふらこの世を最後に見て回っている甲斐さんの魂に届くかもしれないと思いブログを書くことにしました。



●甲斐さんとの出会い


甲斐さんと出会ったのは、大学時代。2005年か、2006年ごろのこと。

「農村への移住者が移住先で築く人的ネットワーク」をテーマにした卒業論文の調査を建前に(もちろんしっかりと調査と論文はしたけれど)、千葉県鴨川市にある鴨川自然王国でのイベントにお邪魔したときでした。


当時、自然王国が開催する「帰農塾」に農文協が発行する現代農業増刊号の編集長だった甲斐さんが講師として登壇。

日本中の農村で甲斐さんが目にし、耳にし、語り合ってきた、農的生活をされる人たちの営みを教えていただいたのが最初の出会いだったと記憶しています。


それ以来、鴨川や甲斐さんの魅力にすっかりハマり、午前中は農作業・午後は調査をしながら鴨川自然王国に住み込むことに。何回か開催された帰農塾で甲斐さんの話を何度も伺う機会を得て、その度に夜は焚き火を囲みながらお酒を呑みました。


思い返せば、大学の図書館で、甲斐さんが編集する『現代農業増刊号』を手に取ったのが、卒論のテーマを決めたきっかけ。

そういう意味では、最初から私は甲斐さんに導かれていたのかもしれません。




以来、大学を卒業して、東京で働き始めたあとも、赤坂(今は亡き、甲斐さんの旧友がマスターをしていたキングハーベスト)でお酒を飲んだり、なぜか年末に三線を発表させてもらったり。

当時付き合っていた彼氏と湘南でデートをしている最中に、絶対にもう酔っ払っている甲斐さんから電話がかかってきて「こんばんわ」「赤坂で飲むぞ」とヘベレケな呼出し。恋人を置いて、赤坂にかけつけたら、ベロンベロンで話にならないくて、仕方なくタクシーに乗せて自宅に送り届けたこと。

甲斐さんと過ごした時間は記憶の中では、ちょっとどうかと思うほど、いつも芋焼酎の香り。「こんばんわ(語尾が上がるのが、甲斐さん流)」「いえ〜い」というあの口癖とセットで思い出されます。



●受け継いだもの


都市生活から、農村に回帰する若者たちをまるで親戚の甥や姪を見るような眼差しで見守り、語っていた甲斐さん。


当時まだ20代だったペーペーの小娘の私に対しても

とても優しく、そしてあたたかく、接していただきました。


「今のままの生活でいいんだろうか」

「このまま大学を卒業して、就職していいんだろうか」

就職した後も「こんな仕事をしていていいんだろうか」と


迷いや葛藤を抱える私に、ときに焼酎片手に、優しく・叱咤激励しながら接してくれた甲斐さん。

実際に農村に入り、農的暮らしをされている実践者の皆様や、高名なジャーナリストの皆様と比べたら、そんな大層な話もしていなかったと思いますが、


「農的暮らしのなかに、私たちが忘れてきたものがある」

「小は大を兼ねる」

「田舎で男たちは問題を語るにあたって、口を動かす。女性は面白いことに、身近な料理や手作りの品を手を動かして作り、この土地で生きる道を見つけていく」

「農山漁村の“遊び仕事”は、自然と労働と身体の調和の指標なんだ」

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「こんばんわ」

「いえ〜い」

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まだまだ、思い返せばキリがないのですが、

生き方の指針として、甲斐さんから教えてもらったことは本当にたくさん。

これから人生の岐路で自分が下す決断は、きっと甲斐さんの言葉をヒントにするのだろうと思います。



そして、間違いなく、今の自分がひょんなことから始めた編み物で

糸を紡ごうと思ったのも、染めてみようと思ったのも、

あの頃、甲斐さんに教えていただいたことが心の深いところに残っていたから。


SNSに編み物の投稿をすると、東京を離れて以来ご無沙汰になってしまっているにも関わらず

「いいね」をくださった甲斐さん。



都内の自宅で息を引き取られた日の夜。

ご実家の宮崎県で起きた地震を受け、高千穂に暮らすご両親・ご兄弟が皆無事、とSNSで投稿をされていました。

ああ、よかったと思っていた矢先の訃報。

本当に残念でなりません。



最後にお会いしたのは、なんだかしっくりこなかった東京生活をもう辞めようと決めたとき。

議員会館にお世話になった方に挨拶に行った夜、「甲斐さんもいるからキングハーベストで呑みますか?」と誘っていただき、足を運んだのが最後でした。


今、私の暮らしに「農」の要素は本当に少ししかありません。

ライスワークとライフワーク

思うようにできていないのも事実。

でも、小さくてもいいから自分のなりわいを作っていくという道は、続いています。



いつかは羊を飼って、自分で紡いだ糸を売って、

編み物で世界と繋がれたら。

そんな夢を、甲斐さんにお会いして話したかった。

甲斐さんは、どんな顔をして聞いてくれるのでしょうか。



甲斐さん、いくらなんでも、少し旅立ちが早すぎませんか?

まだ66歳です。

みんなが寂しがっています。


でも、今頃空の向こうで、大好きな美味しい芋焼酎をたらふく飲みながら

「こんばんわ」「いえ〜い」と言っているのかもしれませんね。


どうぞ安らかに。ほんとうに、ほんとうに、ありがとうございました。





最後に。

甲斐さんが、現代農業増刊号 2007年9月号で綴っていた言葉を転載します。



「消費者」が大量に生まれたのは大量生産・大量消費の時代になってからである。それ以前、都市に住む人々も食事をつくり暮らしを創造していた。「消費者」が「消費者」のままでは、ますます市場主義・グローバリズムに巻き込まれてしまう。自らの食と身体の当事者性さえ奪われる。農業は暮らしを創造する営みである。農村空間から都市への働きかけの新しい段階、それは、ともに地域に、日本に、地球に生きる「当事者」として、「暮らしの創造」を取り戻すことではないだろうか。

ーー(農文協の主張 2007年9月号『「消費者」から「当事者」へ農村から都市への働きかけ―その新しい段階』)

https://www.ruralnet.or.jp/syutyo/2007/200709.htm


10年以上前に綴られた言葉とは思えない、甲斐さんの視点です。

小さきに、弱きに寄り添う。小さきもの、弱きものの強さを見出す。甲斐さんのそんな在り方を、ちっぽけな私も私なりに、受け継いでいきます。


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